「めもあある美術館」を知っていますか?

私が初めて「めもあある美術館」に迷い込んだのは、
小学6年生の時。
子供心に、惹かれる何かが、確かにあったけれど、
その頃はまだ、「めもあある美術館」を遠くから眺めていたに
すぎない。本当に「めもあある美術館」に、しかも私自身の
「めもあある美術館」に、足を踏み入れたのは、ずっとずっと、
後のことだった。
いつの間にか、ずっと、ずっと、ずっと長いこと、忘れたままで、
ある日突然に、「めもあある美術館」のことを思い出し、
再訪を心から願うようになった。

「めもあある美術館」というのは、
小学校の国語の教科書に掲載されていた大井三重子さんの創作童話。
あの当時は知るよしもなかったのだが、
推理小説作家の故・仁木悦子さんの若い時の筆名
(当時の本名:大井三重/通称が三重子)だった。
なんと言っても、小学生にとっては、この「めもあある」という
不思議な響きを持つ外国の言葉が強く、印象的で、
「フランス語でメモワール、思い出という意味ですよ。」と
説明されても、やっぱりその摩訶不思議な匂いは消えることはなかった。

お母さんにしかられて、気がくさくさしていた「ぼく」は、いつの
まにか見知らぬ古道具屋に行き当たる。そこで、男が、「ぼく」の
亡くなった“おばあちゃんの絵”を買い取っている。男に連れられ
てたどり着いたのは、「めもあある美術館」だった。
そこには、「ぼく」の数々の思い出が、絵になって飾られている。

物語をおおまかに要約するとこういう感じ。
子どもの頃は、「めもあある」の意味を、
その意味するところを、結局は、理解してはいなかった。
お母さんにしかられてくさくさしている「ぼく」に共感もしたし、
「ぼく」の不思議な体験をおもしろくも思った。
でも、思い出が、十分な重みを持って、そのひとつひとつを
せつなく、大切に思うようになるのは、もっともっと後のことだっ
た。幼くて、大切な人や物を失うという、喪失感を知らない。
確かに失ってしまったけれど、決して無くしてしまったわけではな
い。
そんなことを思うようになるのは、大切なものを失ってからだった。
失って、絶望的な悲しみの末に、やっと。
やっと、そんなことがわかるようになる。
真に大切なものは、いつまでも、「めもあある」として、
自分の中で生き続けていくのだということが。
それが、私の「めもあある美術館」なのだと。
私にそれを教えてくれたのは、祖母の死だった。

もう一度、「めもあある美術館」を読み返したいと思った時には、
もう、小学校の頃の国語の教科書もとっくに処分していた。
お話だって、もう、ぼんやりとしてきている。
けれど、私にとって、とても大事な物語だったので、
何とか読み返したいと、強く願った。

それから、また時間はずいぶん流れて、
去年の秋、あるサイトの方のご厚意で、
再び、この物語を読み返すことができた。
ネットで検索してみると、大勢の方がこの物語を懐かしみ、
特別の思いを持っているようだ。
きっと読む人誰にとっても、特別の物語になるだろう。
年を経るにつれ、私たちの「めもあある美術館」には、
喜びや悲しみ、あの時々のあらゆる思いの描かれた絵が、
一枚一枚と、増え続けている。

現在、復刊ドットコム(http://www.fukkan.com)
No.656「水曜日のクルト」
(http://www.fukkan.com/vote.php3?no=656)で、
この「めもあある美術館」が収録された童話集「水曜日のクルト」
の復刊交渉が始まっているようです。
本として、「めもあある美術館」をこの手に取れることを楽しみにしています。
(シィアル)
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by wintersavory | 2005-11-05 20:04 | 本*
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